私の趣味は演歌を歌うことです!
ステラ・リスク・マネジメント・サービス(株)
代表取締役、公認会計士、認定与信管理相談士
スティーブン・ギャン
この場をお借りして、私の演歌への愛を語らせていただきます。その前にまず、私が日本のこの音楽ジャンルに深い興味を持つようになった経緯をお話しいたしましょう。
東京に到着したのは1989年1月27日、日曜日のこと。その日は私の32歳の誕生日だったので、今でもその日をはっきりと覚えています。それから約一週間後、私は正式に Nippon Motorola (NML)の全国サービス・ファイナンス・マネージャーとして勤務を開始しました。日本に深い興味を持ち、数年間日本語を学んできたので、日本で生活し働くということは、まさに夢が叶った瞬間でした。
当時、日本にいる、というだけでとにかく幸せでした。実際、あまりにも幸せで、その歓喜のあまり、人びとにはとても興奮した日本語で話しかけていた次第でした。
例えば、朝、経理部に入ると、普通の声で「おはようございます」と挨拶するのではなく、とても大きな声で「オハヨォォォゴザイマァァァス」と叫び、皆を驚かせてしまうというように。皆、さぞ私を奇妙だと思ったことでしょう。それから2週間後には誰も私に話しかけなくなりました。おそらく皆、日本語での長く面倒な会話に巻き込まれることを恐れていたのだと思います。
それからの6ヵ月間、私は経理部で非常に孤独を感じていました。すべての日本人が私とのコミュニケーションを避けていたのです!誰にでも親しみを持って接しようとしていたのですが、悲しいことに、なぜ誰も私に話しかけようとしなかったのか私には理解できませんでした。正直なところ、当時の私はひどく落ち込んでいました。
それから、ある金曜日の仕事後に居酒屋に入って、その実態を見てみようと決意しました。もしかすると、そこで誰かと出会えるかもしれません。
当時住んでいた横浜の津島駅に到着すると、駅周辺の狭い通りを行ったり来たりしながら、居酒屋の中を覗いてみました。すると、中にいた人たちが私のことを見て、何をしているのかと不思議そうな顔をしていました。まるでその表情は、「ここで何してるの?場違いでは?」と語っています。
ようやく、目立たずに入れそうな居酒屋を一軒見つけました。勇気を振り絞って中に入ろうとドアを開けると、たくさんの人たちが笑い、話し、飲み、楽しい時間を過ごしていました。バーカウンターには席が一つだけ空いていたので、私はその席まで直進し座りました。マスターは驚いた表情で私を見ています。私は「ビールください」と言いました。ビールを受け取ると、店内は完全に静まり返り、背後で数人が「外人、国際的」と囁いているのが聞こえます。やはり、目立ちすぎるのでは、という私の不安はここでも現実となりました。
それから30分たった頃、突然私の右隣に座っていた客が話しかけてきました。「お国は?」。私がシカゴ出身だと答えると、シカゴは非常に危険な都市だと彼は言いました、私もそれに同感しました。それから10分ほどすると、私の左隣に座っていた客も話しかけてきました。やがて徐々に他の客たちも私に話しかけ始めました。
しばらく私は、その居酒屋のほとんどの客と会話を交わしていました。お互いに質問し合い、とても友好的な雰囲気で会話を楽しんでいました。客の一人が小さなステージに上がってカラオケを披露。その歌唱力は何とも素晴らしかったことか。私は歌っている全員に拍手を送りました。彼らは私がしっかりと聞いていることにとても感謝していた様子でした。私がその居酒屋に入店したのは午後8時頃でしたが、素晴らしい時間を過ごし、退店した時には午前2時を回っていました。
次の金曜日(花金)、私は再び素敵な居酒屋を探し、その店で前の金曜日の体験を再現しようと試みます。案の定、広尾駅の近くで良い店を見つけ、一人で中に入りました。その時は、ママさんが私を見てとても驚いていました。私は席に着き、ビールを注文し、周りを見渡しました。そこには先週よりも少し多めの20人ほどの客がいて、ここでもカラオケのステージが活気づき、客が次々と歌のリクエストをしていました。
すぐそばにカラオケの曲集があったので手に取って眺め、私も一曲歌ってみようと決心します。日本語で知っていた唯一の曲は、フランク・シナトラの「My Way」のみ。その選曲をママさんに伝えるとすぐに、まるで私がその夜の「スペシャルゲスト」であるかのように、私を他の客より優先してくれました。曲が流れ始めると、私は立ち上がり、小さなステージに向かってマイクを手に取りました。すると、すべての客が話をやめ、私をじっと見つめました。
すべての視線が私に釘付けになったのは、日本語の最初の歌詞「今、船出が近づくこの時に」が口から出始めた瞬間です。曲が進むにつれて多くの間違いをしてしまいましたが、歌い終えると、客は総立ちになって拍手喝采してくれました。ひどく音程がずれ、歌詞も台無しにしてしまったにもかかわらず。私はまるでロックスターのような気分でした!多くの客が私に賛辞をくれ、話しかけてくれました。私は、居酒屋の皆と一緒に素晴らしい時間を過ごしました。
その後の2年間、ほぼ毎週金曜日の夜、仕事が終わった後は面白い居酒屋を探し、そこでの楽しみに加わるようになりました。私は山手線に沿って東京中心部を巡り、特に下町エリアで小さくて居心地の良い居酒屋をたくさん発見しました。居酒屋に入るたびに、客が歌う曲に耳を傾け、あっという間にそれらの曲を覚えました。
というわけで、それから2年後には100曲以上の演歌を悠々と歌えるようになっていました。100曲というと多く聞こえるかもしれませんが、しばしば演歌の曲は歌詞やメロディーが非常に似通っています。いくつかの曲を覚えれば、他の曲も簡単に覚えられます。
私の好きな歌手は、森進一(『新宿・みなと町』)、大川栄策(『雨の永東橋(ヨンドンキョ)』)、加藤登紀子(『百万本のバラ』)、坂本冬美、フランク永井、谷村新司、美空ひばり(彼女の映画も好きでした)、吉幾三、その他多数です。後には、よりポップな曲も歌うようになり、シンガーソングライターの一人、長渕剛も好きになりました。彼は今でも好きで、私の大好きな代表曲『とんぼ』は、後にピアノで演奏できるようにもなりました。
かれこれ日本に住み始めた最初の2年間、居酒屋での人びととの出会いは私の生活の大部分を占めていました。この中で、徐々に日本人とのコミュニケーションの方法を学んでいきました。まず彼らが自分のペースで私に話しかけるのを待ち、会話が始まると私はリラックスして落ち着いた態度で接するようにします。こうすると、もはや私は相手に対して熱狂的に話す必要性を感じなくなりました。実際、相手に英語で話してもらうことで、より楽しい時間を過ごせることに気づいたのです。相手が英語で言葉に詰まったときだけ、日本語で会話を続けようと声をかけました。
東京中のたくさんの居酒屋で2年間歌った後、東京文化会館で開催される日本の男女混合合唱団に参加することに決めました。70人の歌手の中で外国人は私だけです。私はバリトンで歌いました。
最初は、皆が私に大変驚いていましたが、これまで2年間のカラオケ経験がこの新しい体験に大いに役立つこととなったのです。
私たちは、ポピュラー音楽、オペラ、民謡、ミュージカルの楽曲、現代の合唱作曲家の曲を歌いました。合唱で演歌は一切歌いませんでしたが、リハーサル後、皆で居酒屋に出かけ、そこで演歌を披露しました。何とも楽しい時間だったことでしょうか。
私は1989年から2005年初頭までの計15年間日本に住みましたが、帰国後も日本の音楽、特に演歌への興味は続いています。
今でも自宅のオフィスで仕事をしている時や、お風呂に入っている時に、演歌の曲を聴いたり歌ったりしています。ピアノでいくつかの曲を習得し、週に1、2回は演奏するようにもしています。ピアノでのお気に入りの曲は『乾杯』と『氷雨』です。もし機会があれば、下記のリンクでぜひ私の演奏をお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=q6Vz-yXMa-E
https://www.youtube.com/watch?v=_TBIvX_TEcA
もしよろしければ、今度一緒にカラオケに行きませんか?お気に入りの曲を聴かせていただけたら嬉しいです!
以上
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スティーブン・ギャン:全米与信管理協会(National Association of Credit Management)認定の与信リスク管理コンサルタント
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